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コラム高僧の姿? 甕に描かれた高僧の姿

長寿寺大甕 長寿寺大甕高僧像
左:長寿寺備前焼大甕 右:描かれた僧侶の姿 画像クリックで拡大します。


甕に描かれた高僧の姿―白浜町長寿寺の大甕―


 日置川の河口部に近い白浜町大古に建つ長寿寺は、紀南最古級の薬師三尊像(平安時代中期)を本尊とする古刹である。昭和36年(1961)、その境内から甕が出土した。高さ68センチ、径61センチの備前焼の大甕で、胴には「暦応五年」「備前国住人香登御庄」と記され、「あつらふ(誂ふ)也」と読める銘文もある。この大甕は、暦応5年(1342)に、現在の岡山県備前市にあたる香登荘(かがとのしょう)の住人によって造られたものであり、制作時期が判明する日本最古の備前焼であった。
 甕には僧侶の絵も描かれていた。首の後ろに三角形に高く立てた襟(僧綱襟)があって、高位の僧侶であることを表している。備前焼に僧侶が描かれた作例は他にはなく、この甕が特殊な用途に用いられたらしいことを示している。そもそもなぜ、そんな備前焼が日置川流域の寺院に「埋められて」いたのだろうか。
 日置川河口部はかつて安宅荘(あたぎのしょう)といわれ、水軍領主安宅氏によって支配されていた。安宅氏は平時は水運による経済活動を行っていたようだ。昭和52年(1977)、瀬戸内海・小豆島の東、岩礁水ノ子岩の海底に沈む中世の難破船から、備前焼の壺・擂鉢・甕が大量に確認された。船を安定させるために船底に積まれていた石を分析すると、日置川流域の河原石と組成が一致することが分かった。このことから船は安宅氏の水運活動に使用された可能性が高く、その商品は備前焼であったことがわかる。日置川流域と備前焼の関係はこれでつながった。
 大甕の出土地は、長寿寺境内、墓地の一角にある。近年行われた再調査により甕の埋納状況がわかり、肩まで埋めた大甕の上に大小の石を積み上げ、塚状となっていたことが明らかになった。これはまさしく墳墓である。甕は蔵骨容器として使用されたと考えられるだろう。そこに描かれた高僧の姿は被葬者への供養の意味合いがあるように思われるが、想像をたくましくすれば、被葬者自身を示しているようにも思われてくるのである。(学芸員大河内智之)
企画展 高僧の姿―きのくにゆかりの僧侶たち―
和歌山県立博物館ウェブサイト

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