和歌山城の天守閣は火災にあっていないの?
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(岡口御門からみた天守閣) (大手御門からみた天守閣)
(いずれも、『紀伊国名所図会』から抜粋)
これまで、和歌山城の天守閣は2度火災にあっています。
1回目は、1846年(弘化3年)の7月26日で、今から165年前のことです。
町の大年寄(今の連合自治会長にあたる)の人が書いた「御用留」(ごようどめ)という記録のなかに、
お城の天守閣が落雷で焼けたと書かれています。
当時、幕府は天守閣の再建は認めないという方針でしたが、
「御三家」であるという理由で特別に認められました。
工事が始まったのは1847年(弘化4年)で、完成したのは1850年(嘉永3年)でした。
それから、もう1回は、1945年(昭和20年)7月のアメリカ軍の空襲(和歌山大空襲)による火災です。
このときも天守閣が焼失しました。
現在の姿に再建されるのは、1958年(昭和33年)のことです。
天守閣の屋根をよくみると、両端に細長い棒が立っているのがみえます。
これは避雷針(ひらいしん)と呼ばれるもので、落雷によって火災が起こらないようにするものです。
このほか、和歌山城内の火災をみると、1655年(明暦元年)11月の大火が有名で、
このときは、城内西の丸・二の丸、さらに三の丸東部から広瀬の武家屋敷、町屋までが被災しています。
また、1813年(文化10年)にも、二の丸の大奥から出火する火災があったようです。
次回(8月18日)のテーマは、「和歌山城ができるまでの和歌山の町は?」を予定しています。
(主任学芸員 前田正明)