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スポット展示「秋の夕暮」

5月からはじまった「スポット展示 季節のしつらい」。
スポット展示については→こちらをご参照ください。
5回目の今回のテーマは
秋の夕暮(あきのゆうぐれ)
【会期:2010年9月5日(日)?10月7日(木)】
スポット展示(秋の夕暮)展示状況(軽)(画像をクリックすると拡大します)
 空気が澄んだ秋は、美しい夕焼けが発生しやすい季節です。また、徐々に日没が早くなるため、夕焼けや夕暮を意識しやすくなります。俳句の世界では、夕焼けは夏の季語ですが、短い時間で終わる夕焼けや夕暮は、日本の文学や絵画において、古くから、秋の移りゆく季節や、はかなさを感じさせる主題でした。一方、黄金色(こがねいろ)の稲穂を照らす夕焼けは、まさに豊かな実りの象徴でもあったのです。
☆8月の異名
葉月(はづき)・仲秋(ちゅうしゅう)・盛秋(せいしゅう)・南呂(なんりょ)・月見月(つきみづき)・雁来月(かりきづき)・燕去月(つばめさりづき)・迎寒(げいかん)・白露(はくろ)・萩月(はぎづき)・紅染月(こうぞめづき)・竹の春(たけのはる)
☆9月の異名
長月(ながつき)・季秋(きしゅう)・晩秋(ばんしゅう)・無射(ぶえき)・菊見月(きくみづき)・紅葉月(もみじづき)・小田刈月(おだかりづき)・季商(きしょう)・授衣(じゅい)・玄月(げんげつ)・稲熟月(いなあがりづき)・竹酔(ちくすい)
以下は展示資料の解説です。
?三夕図 岩瀬広隆筆
(さんせきず いわせひろたかひつ)
三夕図 岩瀬広隆筆(軽)(画像をクリックすると拡大します)
   1幅
   紙本墨画淡彩
   江戸時代 天保14年(1843)
   縦58.1? 横38.2?
 三夕図(さんせきず)とは、「新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)」の中で、和歌の末尾が「秋の夕暮(あきのゆうぐれ)」で終わる「三夕の和歌(さんせきのわか)」を絵画化したものです。三夕の和歌は、寂蓮(じゃくれん、1139??1202)の「さびしさはその色としもなかりけり槇(まき)立つ山の秋の夕暮」、西行(さいぎょう、1118?90)の「心なき身にもあはれはしられけり鴫(しぎ)立つ沢の秋の夕暮」、藤原定家(ふじわらのさだいえ、1162?1241)の「見渡せば花も紅葉(もみじ)もなかりけり浦の苫屋(とまや)の秋の夕暮」の三首で、本図では、上から寂蓮、定家、西行の和歌の順で描いています。
 岩瀬広隆(いわせひろたか、1808?77)は、京都出身で、後に紀伊藩のお抱え絵師(おかかええし)となりました。
参考解説
岩瀬広隆(いわせひろたか、1808?77)
 岩瀬広隆は、文化5年(1808)京都で生まれました。詳しい出自は不明ですが、20歳代前半には、菱川師宣(ひしかわもろのぶ、1618?94)の5代目を自称して菱川清春(ひしかわきよはる)と名乗り、版本挿絵(はんぽんさしえ)などを描く浮世絵師(うきよえし)として京都で活躍していたようです。祇園祭(ぎおんまつり)で用いられる長刀鉾(なぎなたぼこ)の金具の下絵も描いています。一時、大坂に住んだようですが、天保4年(1833)ごろ、『紀伊国名所図会(きいのくにめいしょずえ)』の挿絵画家として、同書の版元である高市家(たけちけ、帯屋伊兵衛(おびやいへえ))の依頼で、紀州へ招かれました。その活躍が紀伊藩十代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771?1853)に知られ、後に紀伊藩のお抱え絵師となり、大和絵(やまとえ)から文人画(ぶんじんが)まで幅広い画風をこなしました。小野広隆(おのひろたか)、谷(けいこく)、琴泉(きんせん)などの号があります。
?清寧軒焼 黒楽茶碗 銘「妹嶋夕照」 楽旦入作
(せいねいけんやき くろらくぢゃわん めい「いもがしませきしょう」 らくたんにゅうさく)
清寧軒焼 黒楽茶碗 妹嶋夕照(軽)(画像をクリックすると拡大します)
    1口
   江戸時代(19世紀)
   高8.0? 口径10.6? 高台径5.1?
 「妹嶋夕照(いもがしませきしょう)」とは、古来より歌枕(うたまくら)として有名な妹嶋(現在の友ヶ島(ともがしま))の美しい夕焼けを、中国の瀟湘八景(しょうしょうはっけい)の一つである漁村夕照(ぎょそんせきしょう)になぞらえた呼び方です。
 黒い釉薬(ゆうやく)の中に、うっすらとあらわれた赤い帯状の胴の景色を、夕焼けに見立てたものでしょう。表千家10代の吸江斎(きゅうこうさい、1818?60)が、箱書(はこがき)で「妹嶋夕照」と命銘しており、茶碗の底の高台脇(こうだいわき)には「照」の朱漆銘(しゅううるしめい)があります。また、高台内に「樂(らく)」の印があることから、楽旦入(らくたんにゅう、1795?1854)の制作とわかる点も貴重です。
?清寧軒焼 黒楽茶入 銘「瑞穂」
(せいねいけんやき くろらくちゃいれ めい「みずほ」)
清寧軒焼 黒楽茶入 瑞穂(軽)(画像をクリックすると拡大します)
    1口
   江戸時代(19世紀)
   高6.2? 胴径5.2?
 茶入(ちゃいれ)は、茶道の濃茶席(こいちゃせき)のときに使うもので、粉末の茶葉を入れておく容器です。
 この茶入は、やや肩(かた)が張り、胴の中央が少し細くなった形で、荒々しい箆彫り(へらぼり)が縦にめぐらされています。釉薬(ゆうやく)は、黒褐色を基調としつつ、所々に朱色の斑点(はんてん)が散らされ、また、箆彫りに沿って下地の黄色い釉薬があらわれています。銘の「瑞穂(みずほ)」とは、みずみずしい稲穂という意味で、箆彫りの縦線を稲穂に見立てたものでしょう。箱書(はこがき)によると、表千家13代の即中斎(そくちゅうさい、1901?79)の命銘で、器の底には「清寧(せいねい)」の印が捺(お)されています。
参考解説
清寧軒焼(せいねいけんやき)とは
 清寧軒焼(せいねいけんやき)は、紀伊藩11代藩主の徳川斉順(とくがわなりゆき、1801?46)が焼かせた御庭焼(おにわやき)のことです。その作例の多くには、「清寧(せいねい)」や葵紋(あおいもん)の印が捺(お)されていますが、斉順は、天保5年(1832)に和歌山城下の別邸である湊御殿(みなとごてん)が完成する以前にも、江戸中屋敷(えどなかやしき)の赤坂藩邸(あかさかはんてい)で御庭焼を焼いていたらしく、また、和歌山城内の西の丸などからも清寧軒焼の資料が出土しているため、清寧軒焼の焼成時期や焼成場所については、今後の検討が必要です。これまで、斉順は、義父である紀伊藩10代藩主の徳川治宝(とくがわはるとみ、1771?1853)の影響で御庭焼を始めたと考えられていましたが、近年は、斉順自身、早くから作陶(さくとう)に関心を持っていた可能性も指摘されています。
今回のスポット展示の紹介で使用されている写真のうち、各資料3点の個別写真は、すべて、博物館実習生が撮影したものです。→博物館実習2010(補講)(また、博物館実習については→博物館実習をご参照ください)
また、前回のスポット展示→秋草と虫の音で展示した「博雅三位図 岩瀬広隆筆」について、
「岩瀬広隆の署名が、なぜ「小野広隆」になっているのか?」
という質問もいただきましたので、今回は、岩瀬広隆の略歴を、参考解説として紹介しました。
広隆にはいくつも雅号(がごう)があり、小野広隆と署名した作例や、「小野広隆」という印章(ハンコ)も知られています。
ちなみに、この岩瀬広隆という画家については、2008年に和歌山市立博物館で「岩瀬広隆―知られざる紀州の大和絵師―」という大規模な特別展が開催されました。この展覧会にあわせて発行された図録には、岩瀬広隆の事績や画業がとてもくわしく紹介されています。ご興味のある方は、あわせてご参照ください(「岩瀬広隆―知られざる紀州の大和絵師―」の図録については、和歌山市立博物館さんの方まで、お問い合わせください)。
さて、今回のスポット展示は10月7日までです。
ただし、9月10日(金)から9月17日(金)までは、特別展へ向けた展示替えのため、博物館は、常設展示やスポット展示も含めて全面休館いたします。なにとぞ、ご了承ください。
なお、このスポット展示は、どなたでも無料でご覧いただけます。ぜひ、博物館へお越しの際には、2階のスポット展示をご覧ください。(学芸員 安永拓世)
→和歌山県立博物館ウェブサイト

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