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スポット展示「赤坂離宮邸内営繕関係図面―紀伊徳川家江戸中屋敷赤坂邸から赤坂御用地へ―」(12/4~1/23)

スポット展示
赤坂離宮邸内営繕関係図面
―紀伊徳川家江戸中屋敷赤坂邸から赤坂御用地へ―
会期:令和3年(2021) 12月4日(土)~令和4年(2022)1月23日(日)
会場:和歌山県立博物館 2階学習室スポット展示コーナー
 寛永9年(1632)に、紀伊徳川家初代頼宣(よりのぶ)が拝領して以来、紀伊徳川家の中屋敷であった赤坂邸は、慶応4年(1868)に徳川宗家に貸与され、さらに明治6年(1873)には皇室に献上されて、現在の赤坂御用地(赤坂離宮、東宮御所)として引き継がれました。明治6年5月5日の皇居炎上ののち、明治21年(1888)の皇居新宮殿が完成するまでは、太政官布告により赤坂離宮が皇居と定められていました。
 当館所蔵のこの絵図群は、明治時代中期の赤坂離宮に関するもので、表紙に捺されている朱印により、宮内省の部局である内匠寮(ないしょうりょう)旧蔵のものと分かります。全体は大きく二種類に分けられ、一つは観菊会(かんぎくかい)に関するもの、もう一つは離宮内の設備に関するものです。観菊会に関する図面は、表紙は付けずに表題を直接本紙裏に記して、観菊会の際に設営される仮設設備を淡彩で詳細に描いています。観菊会は宮中の年中行事として、明治13年(1880)以降昭和初期まで毎年開催されているもので、現在の春秋の園遊会の前身です。後者には朱色の表紙が付けられ、表題の中には明治34年(1901)の年紀も確認できます。赤坂離宮内の建物の工事・営繕図面として用いられたものとみられ、その内部の間取りまで詳細に把握することができます。
 西洋のガーデン・パーティーを模した立食形式の宴である観菊会は、大名庭園における園遊が形を変えて復活したものとみられ、敷地の範囲を含め、紀伊徳川家江戸中屋敷庭園の持つ性格が、それほど変質しないで近代に引き継がれたのではないかと考えられます。なお江戸時代にはすでに赤坂邸内の「菊畑」で菊が栽培されていたことが他の資料(当館所蔵「赤坂庭園五十八勝図」)からもうかがえます。
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