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和歌浦を描いた屛風

本日(21日)午後1時30分から、4回目のミュージアム・トークを行いました。
9人のご参加がありました。
展示資料の紹介 3
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厳島和歌浦図屛風(いつくしまわかのうらずびょうぶ) 6曲1双 (展示番号16)
  紙本金地著色 縦126.0㎝ 横262.0㎝
  江戸時代(17世紀)  和歌山県立博物館蔵
 厳島と和歌浦とを一双に描いた名所図屛風で、署名・落款はない。
画面は比較的濃い彩色で丁寧に描写されており、一部に金砂子を用いているものの、
大半は金箔を貼った金雲を全体にたなびかせている。
画面には顔料の剝落や浮きが散見されるが、大きな修復の跡は確認できず、
ほぼ制作当初の状態が残されている。
人物の衣服や器物の描写は細かく、その文様などもかなり緻密で、
人物の風俗描写や全体の描写様式から17世紀後半と考えられる。
本図と構図が近似するものとして和歌浦図屛風(堺市博物館蔵)がある。
ただ、堺市博本は六曲一隻(和歌浦図のみ)で、建物の構成・人物の配置など、
詳細な部分では異なるところも少なくない。
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 このうち和歌浦図は、右から「あはしま(淡島)」・「七本松」・「ふきあけ(吹上)」・
「あたこ(愛宕)山」・「わか(和歌)大明神」・「さいかのうら(雑賀浦)」の貼紙がある
堺市博本には、「ふじしろとうげ(藤白峠)」・「和哥天神」・「形尾浪(片男波)」・
「玉津島」・「紀三井寺」・「布引松」・「ごんげん(権現)の宮」の貼紙ある。
ただ、これらは後世に貼り替えた形跡があり、必ずしも正確な位置を示しているとはいえない。

画面中央にみえる社殿には、「わか大明神」の貼紙があり、
この社殿が天満神社であることを示唆している。
 ところで、中世から近世にかけて、
和歌浦の景観美を俯瞰するような絵画作品が存在した可能性が指摘されている。
また、江戸時代の早い時期に制作された和歌浦図には、
向かって左に描かれる名草山(紀三井寺)の麓から右に延びる長い砂州、
右に描かれる天満神社の近辺の鳥居付近から
左に延びる短い砂州が見られるものが多いとの指摘がある。
本図の絵手本(未確認)もそうした構図に近いものではないかと考えられ、
中央には和歌浦の地主神である天満神社、左側に紀三井寺・布引松、
右側に淡島神社・吹上浜が描かれていたと想定される。
 本図の画面中央に描かれた社殿は、「わか大明神」の貼紙のほか、
正面が入母屋の本殿、海上に立つ大鳥居など、天満神社を連想させる描写となっている。
ここに描かれた社殿が天満神社とすれば、浅野幸長によって再興され、
楼門・回廊が新造された慶長11年(1606)以降の景観となる。
一方、元和5年(1619)紀伊国に入国した徳川頼宣は、
元和7年天満神社の東隣に東照宮を造営し、その後東照宮境内の整備を行った。
中央に描かれた社殿の横には天満神社にはないはずの三重塔が描かれており、
この点は東照宮を連想させる描写となっている。
 近世の和歌浦図は、天満神社を中心とした伝統的な構図から
東照宮を中心とした実景的な構図に移行する傾向にある。
しかし、実際は伝統的な構図の要素と実景的な構図の要素が混在しながら、
形式化が進んでいったようである。
その意味で本図は架空の景観を描いたものともいえるが、
それだけバリュエーションに富む和歌浦図が制作されていたことを示している。
企画展「描かれた紀州」は、3月8日(日)まで開催しています。
(主任学芸員 前田正明)
→描かれた紀州
→和歌山県立博物館ウェブサイト

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