夏休み企画展「生誕200年記念 稲むらの火 濱口梧陵」が23日(日)で終了します。
今年は、濱口梧陵が生まれて200年の節目の年でしたが、
「新型コロナ」の影響で、ご来館いただけなかった方もたくさんおられると思います。
そこで、ご来館いただけなかった方にも、企画展の内容を知っていただけるよう、展示資料を紹介します。
なお、画像は会場内での撮影をご許可いただいたものに限定しています。
Ⅰ 梧陵のふるさと
湯浅は、熊野参詣の宿所として栄えました。遅くとも中世後期には熊野街道は海側に移り、現在の湯浅の町並みが形成されていきます。一方、広は一五世紀半ばに畠山氏が館(現在の養源寺の場所)を築いて以降、町場が形成されていきます。一六世紀以降、五島列島や房総半島へ出漁し栄えますが、一八世紀半ばごろから不漁が続き、衰退していきます。
一六世紀後半に始まったといわれる醤油醸造は、湯浅では大坂市場向けの醤油生産、銚子(千葉県銚子市)では広出身者らによる江戸市場向けの醤油生産が行われます。湯浅や広は地形的に高波や津波の被害を受けることが多く、特に広は湯浅よりも土地が低いことから、被害も大きかったようです。
一七〇年ほど前の有田郡の村々をカラフルに描く
(部分) (全体) (画像はクリックで拡大します)
1 有田郡絵図 大江霞岳筆 一巻 嘉永元年(一八四八) 和歌山県立博物館
平地の色分けで隣の村と区別し、村名の文字を囲む形で、五つの組(大庄屋の管轄範囲)を表しています。道路は破線で示し、熊野街道は他の道とは区別され、名所・旧跡なども記されています。京都の絵師小田海僊の弟子とされる田口村(有田川町)出身の大江霞岳(?~一八五〇)が描きました。湯浅村(黄色)と広村(桃色)は、海に面した入り江、川の河口という、港に適した天然の地形によって、古くから漁業や海運が発達しました。
海沿いの街道(大辺路)周辺の風景を描く
(画像はクリックで拡大します)
2 大辺路図 一帖 江戸時代(一八~一九世紀) 和歌山県立博物館
大辺路は、和歌山城から田辺・新宮を通り、紀伊長島(三重県紀北町)に至る街道で、この図は、もとは紀伊徳川家の所蔵で、大辺路沿いの景観を山側から俯瞰的に描いています。ただ、海岸沿いにある岬や岬近くに設置された「遠見番所」など、藩の施設も記されています。街道から少し離れた広浦が描かれているのは、紀伊徳川家ゆかりの養源寺(瓦葺きの大きな建物)があったためとみられます。「八幡社」とあるのは広八幡神社です。
湯浅の町や湯浅湾の風景を東側から描く
(画像はクリックで拡大します)
3 紀州湯浅町図 四曲一隻 明治時代(一九世紀) 湯浅町教育委員会
南紀男山焼(広川町)の絵付師であった光川亭仙馬(土屋政吉、一八一六~九三)が描いたといわれています。湯浅沖にたくさんの帆船が停泊し、樽らしきものを乗せて港に向かう大八車、沖合の帆船に荷を積むため、小船に積み込む様子などが描かれています。右端に大仙堀、その下に顯国神社がみえます。左端は広川河口で、対岸にある広村もわずかながら描かれています。小船で漁をする人々、その左側の天王波戸には停泊する三隻の帆船が見えます。
九〇年ほど前の湯浅の風景を撮影した写真
(画像はクリックで拡大します)
4 絵はがき(紀州有田名所) 八枚 昭和時代(二〇世紀) 和歌山県立博物館(喜多村進コレクション)
日露戦争が終わる明治四〇年(一九〇七)ごろから、土産物や記念品、コレクションの対象として、絵はがきが流行します。これらの絵はがきは、和歌山の大正写真工芸所で印刷され、湯浅の小西写真軒が「紀州有田名所」として発行したものです。ぎっしりと建ち並ぶ湯浅の家並み、埋めたて前の湯浅から広にかけての海岸線、蔵町通りの西端にあった船への乗降や荷物の積み下ろし場など、九〇年ほど前の風景が写し出されています。
江戸時代の熊野街道の景観を海側から描く
(画像はクリックで拡大します)
5 熊中奇観 下巻 一巻 江戸時代(一八~一九世紀) 和歌山県立博物館
上巻は伊勢国の田丸城下(三重県玉城町)から潮岬(串本町)までを、下巻は本宮(田辺市)から和歌山までの景観を描いています。街道沿いに住む人々の暮らしや名所・旧跡が記されています。湯浅村では、逆川(広川)に架かる橋(広橋)のすぐ左側に瓦葺きの家や土蔵がみえ、山田川の河口に位置する湯浅湊にも家が建ち並び、帆船が停泊しています。逆川の右側は広村で、海には天王波戸(波戸場)が描かれ、二隻の帆船がみえます。
広浦の庄屋が記した広浦の繁栄と衰退の歴史
(畠山堤防) (大波戸)
(画像はクリックで拡大します)
6 広浦往古ヨリ成行覚 一冊 寛政六年(一七九四) 広八幡神社
室町時代に畠山氏が広に居館を建てた話から始まります。浜に三百間(五五〇m余)の浪除けの石垣(畠山堤防)が造られ、徳川頼宣が広御殿を建て、波戸場(大波戸)が造られたのち、九州や関東の漁場へ出漁する人も多くなり、千軒ほどの家が建ち並ぶようになった。ところが、宝永四年(一七〇七)の大津波で四百軒の家が流され、波戸場も崩れ、船の出入りもできなくなり、飢饉や不漁も重なって、寛政六年ごろには年貢が納められないくらい衰退した、と記されています。
広村の耕地・道・水路・堤防などを調査した図面
(画像はクリックで拡大します)
7 広村地籍表 一舗 明治八年(一八七五) 広川町教育委員会
耕地を潤す水路(水色)が、陸側から海側に向かって四本流れています。道路(黒色)は主要なものは太線、その他は細線で区別されています。海に近い場所に左から養源寺・円光寺・正覚寺・覚円寺・神宮寺が書かれています。集落は寺の周りにありました。洪水や高波・津波から耕地や集落を守るための堤防(茶色)が、広川と江上川、浜に描かれています。海側に松が描かれている「浪除堤塘」は、梧陵が築いた、現在の「広村堤防」です。
大・小区制の実施に伴い調査された広村の概要
(画像はクリックで拡大します)
8 明細取調御達帳 一冊 明治六年(一八七三) 広川町教育委員会
明治五年、和歌山県の行政組織が七大区・六一小区に再編され、翌年村では県に提出する「村の概要」をまとめました。そのなかで、五つの堤防(①広川除堤 ②除波石垣 ③除波土堤 ④大波塘 ⑤地方向波塘)が記されています。③は広村堤防です。④は広村地籍表に「大波戸」(波戸場)とあり、寛文年間(一六六一~七三)に紀伊藩初代藩主の徳川頼宣が築造したと記されています。波戸場は高波などで損壊することもあり、たびたび修復されました。
大波戸と呼ばれた波戸場を修復した記録
(画像はクリックで拡大します)
9 広浦大波戸再築記録 一冊 享和二年(一八〇二) 広川町教育委員会
広浦浜方庄屋で、醤油醸造業を営んでいた飯沼仁兵衛が、宝永四年(一七〇七)の大津波で破損したままになっていた波戸場(船着き場)の修復計画をたて、紀伊藩に修復願いを出しました。工事は寛政五年(一七九三)に始まり、享和二年まで一〇年かかりました。完成した波戸場は、高さ約七・六m、長さ約一八二mで、工事費は、藩からの出資のほか、広・湯浅の商人や網元が出し、不足分を湯浅・広の住人が負担しました。
大波戸を再び修復するため藩に出された願書
(画像はクリックで拡大します)
10 大波戸御普請御用留 一冊 嘉永元年(一八四八) 広川町教育委員会
弘化四年(一八四七)から波戸場の修復願いが、紀伊藩に出されます。その理由について、享和二年(一八〇二)に修復されたが、かなりの月日が経ち、荒波で破損したり、埋もれたりして、大船が着岸出来なくなった。再び修復すれば、藩へ納める米の積み込みが便利になり、諸国からの廻船も心配なく着岸できる、と述べています。修復費用として銀二〇貫目の借用を藩に願い出ますが認められず、資金の目途が立たず、工事は行われませんでした。
(主任学芸員 前田正明)
→濱口梧陵
→和歌山県立博物館ウェブサイト