幡掛松幷鎌八幡図絵馬(館蔵品814)
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【基礎情報】
板面着色 1面 縦58.1㎝ 横85.8㎝
嘉永3年(1850)
(表面墨書)
「紀州[ ]/幡掛松幷鎌八□図」
「奉掛」
(裏面墨書)
「願主/高野山福智院宥伝/□(時ニ)嘉永三戌載(歳)正月」
【内容】
この絵馬は幡掛松と鎌八幡宮(いずれも現在の伊都郡かつらぎ町兄井に旧在)を描いたものです。
画面中央に大きな松とその枝にかかる白い幡、そしてそこに集う人々が描かれ、
左上方には櫟(いちい)の巨木をご神体とした神社が描かれています。
現在は顔料の剥落・退色が著しいですが、当初は金箔をおした金雲がたなびき、
余白には金の切箔がまかれた豪華なものだったと思われます。
裏面の墨書銘によると、
高野山福智院宥伝が願主として嘉永3年正月に奉納したものであることがわかります。
天保6年(1835)の仁井田好古撰「三谷荘兄井村鎌八幡記」によると、
鎌八幡のご神体は神功皇后が「三韓征伐」の際に用いたという幡と熊手で、
もとは讃岐国屛風浦(香川県多度津町)に祀られていたようですが、
弘法大師が高野山を開創した時についてきたため、
櫟の木を憑代(よりしろ)として祀ったものといわれています。
また『紀伊国名所図会』によると、高野山開創の際にしばらく松に幡が掛かっていたため、
幡掛松と名付けられたともいいます。
ご神体の幡と熊手は、長らく高野山に祀られていたようですが、
明治2年(1869)に鎌八幡宮に遷座し、
その後明治42年に鎌八幡宮が丹生酒殿神社に合祀された際、
丹生酒殿神社に納められたといいます(『和歌山県の地名』平凡社)。
鎌八幡の憑代である櫟の木には、
祈願のある者が鎌を打ち込むと、
祈願が成就する場合は木の幹の深くまで飲み込まれ、
成就しない場合には落ちると言われていました。
そのため江戸時代には門前で鎌を売る人、一回に1000挺打つ人などもあったようです。
珍しい習俗として知られていました(『紀伊続風土記』などにも記載あり)。
この絵馬は、こういった鎌八幡宮をめぐる信仰と伝承を描いたものといえます。
なお、鎌八幡宮は明治42年(1908)に丹生酒殿神社(かつらぎ町三谷)に合祀され、
現在は丹生酒殿神社の境内(裏手)に祀られています。
丹生酒殿神社境内には櫟の木が祀られ、無数の鎌が打ち込まれています。
※現在は鎌の形をした絵馬を奉納しているようです。
(当館学芸員 坂本亮太)