今日(22日)、3回目のミュージアムトークを行いました。40人の参加がありました。
トークはこんな感じです。
3 東照宮に集う藩主と家臣たち
元和7年(1621)紀伊藩初代藩主となった徳川頼宣(とくがわよりのぶ、1602~71)は、父である徳川家康(1542~1616)を祭る東照宮を和歌浦に勧請しました。普請奉行を勤めた安藤直次・彦坂光政を始め、重臣たちは石灯籠を奉納し、藩主と家臣とが一体となって紀州東照宮が造営されました。
紀州東照宮の祭礼である和歌祭は、家康の命日である4月17日に行われました。この日、多くの練り物や芸能が供奉(ぐぶ)し、行列を連ねながら、御旅所への神輿渡御(みこしとぎょ)が行われ、海には関船(せきぶね)が浮かべられ、御旅所では、藩主・家臣と民衆が共に楽しむ場が演出されました。
明治になると、和歌祭は一時中断を余儀なくされましたが、明治7年(1874)には有志によって再興され、明治18年には徳盛社(とくせいしゃ)、明治32年には明光会といった後援会が設立され、和歌祭は継続されていきます。その背景には、旧紀伊藩家臣の働きかけや地元和歌浦の人々の努力が大きかったようです。
和歌御祭礼図屏風(わかおんさいれいずびょうぶ)です。和歌山市道場町にある浄土宗西山派の海善寺に伝来した和歌祭を描いた屏風です。海善寺は和歌山城下の湊にあった有力寺院でした。
(右隻)
左隻の上部には天満宮、右隻の上部には東照宮、左右両側の中央部から下部にかけて片男波の砂州と入江が配置されています。右隻上部にある東照宮から出発して、下部の御旅所に至る渡御行列が描かれ、その両側に三浦家などの藩の重臣たちの家紋が入った幕が張りめぐらされている様子がみえます。和歌祭の行列とともに、行列周辺の景観が詳しく描写されているのが、この和歌御祭礼図屏風の特徴です。
(左隻)
左隻の右から3扇目に、「天下一出羽(てんかいちでわ)」という招き看板を付けた人形浄瑠璃座の一行が小さくみえます。一方、右隻の右から2扇目にも「天下一出羽」の招き看板を付けた小屋とその右側に能舞台がみえます。慶安3年(1650年)ごろになると、和歌浦では京都や大坂で活躍していた一流の狂言座や人形浄瑠璃が招かれて興行するようになりました。彼らは渡御行列にも参加していたようで、練り物の最後を歩いています。紀伊藩家老三浦家に仕えた石橋辰章(たつあき)が記した「家乗(かじょう)」という日記の記述と照合することで、この屏風に描かれた和歌祭は、寛文5年(1665年)の家康50回忌に行われた和歌祭であることが明らかになりました。限られたスペースのなかで行列を描くため、人数はかなり省略されているようですが、出し物の種類はあまり省略せず、かなり正確に描いているようです。この屏風が描かれた翌年から祭礼の規模が縮小されており、このことがこの屏風制作の動機と深く関係しているようです。
紀伊藩の御召関船であった「文彩丸」に掛けられた船名額です。船名額とは、和船に掛けられていた船名が書かれた額です。和船の研究者である石井謙治氏が収集したもので、最近、当館に寄贈されました。
藩主が使用する御召関船(海御座船)は、軍事的な目的で造られましたが、海路を移動する手段として使われるようになりました。やがて、和歌祭の当日に片男波の沖合いを航行する「船舞」に使用されるようになったようです。
この「文彩丸」という船名額は、中央に「文彩丸」の文字を彫り込み、金箔を押し、ほかの部分は黒漆が施されています。船尾まん中のデッキのうえに掲げられたと考えられます。裏面は、取り付け用の鉄金具が付けられています。「和歌山御船数之事」(交通博物館蔵)によれば、文彩丸は櫓数が大櫓56挺立、帆の反数が16反、航(かわら)長さ(船首から船尾までの船底材の長さ)が63.5尺(約19.2m)、肩幅が19.6尺(約5.9m)、深さ6.7尺(約2.0m)であったとされています。
万歳丸(ばんぜいまる)という紀伊藩の御召関船の船尾の断面図(「艫真向(へさきまむき)絵図)です。まん中のデッキの上をみると、船名額「万歳丸」が見えます。おそらく、文彩丸もこのように掲げられていたと考えられます。
先ほど紹介した、和歌御祭礼図屏風の左隻の左端にも、片男波に浮かぶ関船が描かれています。
28日(土)13時30分から、4回目のミュージアムトーク(展示解説)を行います。
(主任学芸員 前田正明)
→企画展「紀伊徳川家の家臣たち」
→和歌山県立博物館ウェブサイト