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2回目のミュージアムトークを行いました。

今日(14日)、2回目のミュージアムトークを行いました。26人の参加がありました。
トークはこんな感じです。
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2 和歌山城下町と武家屋敷
 戦国時代、和歌山は鷺森(さぎのもり)の真宗道場(現、鷺森別院)を中心に、寺内町としての発展を遂げました。その後、天正13年(1585)の羽柴秀吉(はしばひでよし、1537~98)による紀州攻めの後、紀伊国を支配する拠点として和歌山城の築城が始まり、城を中心とする城下町が形成されるようになりました。
 慶長5年(1600)に入国した浅野幸長(あさのよしなが、1576~1613)は、城下町の整備を進めていきます。城下町は、城の周りに家臣団の住む武家町、さらにその生活を支えた商人や職人たちの住む町人町、出城的な役割をもった寺院町などで構成されました。
 元和5年(1619)に徳川頼宣(とくがわよりのぶ、1602~71)が入国すると、城下町はさらに広がっていきました。寺町の南側には武家屋敷町が、和歌川の東側には北新町・新町がそれぞれ形成されていきました。こうした城下町の発展は、城下町絵図にみられる町割からもみることができます。
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紀州和歌山大絵図       和歌山古屋敷絵図
紀州和歌山大絵図(館蔵)  和歌山古屋敷絵図(和歌山県立図書館蔵)
 上の写真は2枚の和歌山城下町の絵図です。右側の和歌山古屋敷絵図は17世紀半ばの和歌山城下を描いた絵図です。和歌山城内には本丸や二の丸がありましたが、描かれていません。内堀の外側(大手前側)には本丸や二の丸を防備するための三の丸がありました。三の丸と城下との間は外堀で区切られ、外堀の内側に沿って土塁(どるい)が築かれ、松が植えられていました。三の丸には、付家老である安藤家や水野家のほか、重臣たちの屋敷、会所(のちの評定所)など藩の役所が置かれていました。この絵図からもその様子を知ることができます。和歌山城の北西部の宇治に「御花畑」、西側に「禅林寺」がみえますが、左側の紀州和歌山大絵図では武家屋敷地になっています。
 右側の和歌山古屋敷絵図の南端は寺町になっており、17世紀半ばの城下町の南限は寺町付近だったようです。この絵図が作られてしばらく経った、1660年から1680年にかけて、吹上水道と呼ばれる堀、つまり現在は堀止から新堀橋に向かう道路になっている吹上水道の開削工事が行われ、寺町の南側である吹上に武家屋敷地が新たに造成されました。城下町の拡張以前の景観を知ることができる絵図です。
 左側の紀州和歌山大絵図は、19世紀半ばの和歌山城下を描いた絵図です。白色の武家屋敷地は居住者の名前が記されていますが、柿色の町人地は町名だけです。城下町絵図は、藩が家臣の居住地を把握するために作成されたものだったためと考えられます。この絵図で興味深いのは、10代藩主であった徳川治宝が焼かせた瑞芝焼や南紀高松焼の窯があった場所に、それぞれ「高松陶器場」・「鈴丸陶器所」の文字が記されている点です。こうした場所を記した絵図は、ほかに類例がありません。
 この絵図の家臣の居住地には家臣名が書かれています。今回関連資料を展示している芦川甚五兵衛家と渥美源五郎家がどのように描かれているかみてみましょう。
紀州和歌山大絵図(加工1) 和歌山古屋敷絵図 (加工1)
 2つの絵図を比べてみると、芦川家の屋敷(青い矢印)は三之丸の同じ場所にあります。一方、渥美家の屋敷(赤い矢印)は和歌山古屋敷絵図では宇治地区にありますが、紀州和歌山大絵図では吹上地区になっています(正確にいえば、渥美源五郎家の屋敷ではなく甚五郎家の屋敷しか確認できません。江戸時代中ごろの絵図では、甚五郎ではなく、源五郎になっています)。
 このことから、多くの家臣たちは屋敷を拝領しても、あくまで使用する権利を与えられただけで、藩の命令で屋敷替えを命じられることもあったようです。
22日(日)13時30分から、3回目のミュージアムトーク(展示解説)を行います。
(主任学芸員 前田正明)
→企画展「紀伊徳川家の家臣たち」
→和歌山県立博物館ウェブサイト

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