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特別展関連コラム「法福寺の阿弥陀如来像及び二十五菩薩像」

法福寺の阿弥陀如来像及び二十五菩薩像
 西方はるか彼方に、阿弥陀如来が住む極楽浄土がある。そこでは悩みも、苦しみもなく、常にすばらしい音楽が流れ、よい香りが漂っているという。阿弥陀如来への信仰は、死後にこの極楽浄土へと転生することを願うものである。
 その極楽浄土へは、どのようにして行けばいいのだろうか。路頭に迷う不安を抱えたままでは、安らかな最期は迎えられない。しかし心配はいらない。阿弥陀如来を信仰する者のところには、臨終に際して、阿弥陀如来と二十五菩薩が雲に乗って飛来し、極楽浄土へと迎えに来てくれるという。
 有田川町楠本の法福寺に伝わる阿弥陀如来像及び二十五菩薩像(和歌山県指定文化財、像高38.0㎝~68.3㎝)は、そうしたお迎えの情景を立体的に表現した群像である。中央の阿弥陀如来坐像は頭に冠をかぶった、密教に特有の独特な姿で、平安時代前期、10世紀に造像された古い仏像である。それに対して阿弥陀如来のまわりで楽器を演奏している表情豊かな二十五菩薩像は、平安時代後期、12世紀に造像されたもの(うち7体は江戸時代の補作)。阿弥陀信仰が最も隆盛となった12世紀に、古い阿弥陀如来坐像を転用して、この群像は形づくられたとみられる。
 同様に阿弥陀如来と菩薩が来迎するようすを表した平安時代の彫像は、京都府・即成院の群像(ただし菩薩像のうち15体は江戸時代の補作)や岩手県・松川二十五菩薩堂の菩薩像(ただし全て破損し、断片のみ残る)がある程度で、平安時代の菩薩像が18体も残されている法福寺像は、日本彫刻史上、とても重要な位置付けにある。即成院像は平安時代の貴族、橘俊綱が造らせたもの。そして松川二十五菩薩堂像は奥州平泉の文化圏にあり、中央と結びついた有力豪族が関与して造像したものだろう。では、法福寺像はどうか。
 法福寺にほど近いところに、堂鳴海山(どうなるみさん)という山がある。この山頂付近には、今は全て廃絶したが、かつて寺院が点在していた。法福寺の仏像は、この堂鳴海山周辺にあった慈恩寺から移されたものとして伝来してきた。実はこの堂鳴海山のあたりは、北東に約25㎞離れた高野山が、10世紀以降、その聖域の西南の端と意識していたところである。すなわち、これら仏像群の造像には、高野山の影響が及んでいたことが想像されるのである。
 高野山といえば密教の聖地とのみ思われがちであるが、実は平安時代後期から、阿弥陀を信仰する聖(ひじり)とよばれる僧侶が多数集まっていたところでもあった。そうした聖のうち、高野山の聖域の最西端、極楽浄土に最も近いこの地に、阿弥陀如来と二十五菩薩の群像を安置した別所を設け、臨終の時を迎えていた集団があったのではなかろうか。菩薩が奏でる妙なる音楽に耳をすまし、極楽往生を願った僧たちの祈りに、思いを馳せてみたい。
(学芸員 大河内智之)
法福寺阿弥陀来迎像
法福寺菩薩坐像(金剛蔵菩薩坐像)
法福寺菩薩立像(大威徳王菩薩立像)

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