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雑賀惣中中郷黒印状および閑月寺文書(館蔵品1142)

雑賀惣中中郷黒印状および閑月寺文書(館蔵品1142)
昨年度の新収集資料です。いずれもいわゆる新出文書です!
この文書群は、木箱に納められており、総点数14点を数えます。
内容は大きく、①中西氏あて文書(2点)、②閑月寺関係文書(9点)、③そのほか(3点)に分けられます。
①に関わる中西氏については詳細は不明ですが、
①のなかで特に注目されるのは、戦国時代の雑賀惣中中郷黒印状です。
雑賀惣中中郷黒印状
雑賀惣中中郷黒印状(クリックすると画像が拡大します)
【釈文】
去二月五日、於」川辺表、令合戦」殊一番鑓組打」御高名無比類御」働無申計驚入」申候、乍少分為」褒美青銅千疋」被相遣之候、
恐惶謹言、
      惣中
 三月五日  中郷(印)
中西善次郎殿参
雑賀中郷は、和歌山市東部の加納・岩橋・栗栖・和佐などを含んだ地域にあたります。
この文書は、厚手の楮紙を料紙とする折紙の感状(竪38.4㎝、横50.4㎝)で、
雑賀中郷が中西善次郎にあてて去2月5日の川辺(和歌山市川辺)合戦での戦功を賞するものとなっています。
また据えられた中郷の黒印は、「寶」をデザイン化したものとなっています。
中郷黒印
(中郷の黒印 クリックすると画像が拡大します)
川辺合戦については不明ですが、川辺は紀の川北岸にあたり、
付近に川辺王子・中村王子があるなど熊野道が通る交通の要衝となっています。
天正5年(1577)の信長の雑賀攻めに関わるものとみたいところですが
(実際に2月末~3月上旬には信長軍が雄山峠を越えて川辺を通過し雑賀へ向かったと考えられます)、
信長が雑賀攻めに京都を発つのは2月13日なので、残念ながら時期が合いません。
雑賀衆に関わる印判状としては、
・三上郷の黒印状(和歌山県指定文化財 願成寺文書(間藤家文書のうち))、
・雑賀足軽衆惣中の黒印状(真観寺文書)
が現在知られています。
雑賀では様々な社会集団が黒印を使用してたようで、この文書もその一例となります。
中郷に関わる黒印状はこれまで知られていないもので、極めて貴重といえます。
なお、中西家は江戸時代・寛保2年(1742)においても存在・活動が確認できます。
②に関わる閑月寺は、紀の川市貴志川町前田に所在した寺院です。
『紀伊続風土記』貴志荘前田村の項に、
「真言宗古義京勧修寺末、本村の西にあり」
とあるのみで、詳細は明らかではありません。
この文書群を調べてみると、
閑月寺は万治元年(1658)~同2年の間に前田若右衛門によって建立され、
貞享3年(1686)春盛宥仙建立の堂が享保2年(1717)に閑月寺付となり、
その後、宝暦6年(1756)には京都勧修寺の末寺となり、
明治6年(1873)に無檀家のうえ、度重なる大風雨により廃寺になったことがわかりました。
現在、宗教法人として閑月寺は残っていませんが、お堂自体は残り、
千手観音立像・毘沙門天立像が残されているようです(『貴志川町史』第3巻)。
遺状覚
遺状覚(クリックすると画像が大きくなります 釈文省略)
現在残るという千手観音立像・毘沙門天立像は、
ここに掲載した遺状覚などに記される閑月寺の什物と対応します。
そのほか江戸時代における閑月寺の什物一覧や明治時代の廃寺関係史料などもあり、
寺院の動向、現地に残る仏像などの来歴もわかり、
貴志川流域の寺院の歴史を跡づけるものとして重要です。
ただし、 閑月寺と中西家の関係性、
なぜ中西家あての雑賀中郷の古文書がこれら文書群と一緒に残されたのかなどは、
今のところ残念ながらわかりません。もう少し考えていきたいと思います。
まだまだ検討課題の多い資料群ではありますが、
少しずつ研究を深めていきたいと思いますし、また是非ご検討・活用いただけましたらと思います。
(当館学芸員 坂本亮太)

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